最近、ずいぶん忙しくて(貧乏なんとやら)色々考える時間が無いのだが、では、時間があったからと言って考えるかどうか、というのはまた疑問である。このような言い訳は、禅問答に近い、禅問答というか、夜中の小人論争である。 夜中に小人が現れないと言えるかどうか、という、まあ、禅問答である。そして、これは堂々巡り。
できるだけ、公平にいようと思っているが、今回、自分が触れた思い込みには驚愕するしかない。誰に、「あの人は、ああいう人だ」と言われたわけではない。自分が思い込んでいる。さらに、自分が「ああいう人だ」と思った経験は一切ない。なのに、「そうだと思っている」
「そういうことってやらないっぽいよね」と言いだしそうになって「そんなイメージはいつ作られたんだ」と自問自答する。そういうキャラかどうか、本人にも打診したが「そんなことはない」ときっぱり。どうしたんだろう、何か書きかえられているとしか思えないような思い込み。
話は変わる。
良い恋人は良い夫ではないが、夫になるためには良い恋人という道を通らなくてはいけない。(逆もまた然り)
となると、お見合いという仕組みは、恋人をすっとばして「家族」という単位で見ているのだからとても理にかなっている。
さらに話は変わる。
最近、なにもやっていない。ということに気付いた。
小説を書いているわけではなし、勉強をしているわけではなし、もう少し、時間を有効活用しなくては、死ぬまでに残された時間は数十年しかないかもしれない。何かを始めれば、すべてが同時並行に進むんだと思う。まずはとっかかりを付ける必要があるよね。
久しぶりに書いたブログは、書きたいことがたくさんあるが、どこからかいていいのやら解らない。これからまだ忙しい時期が続く。沢山の人へ感謝の気持ちを込めて、1日を大切にしようと思う。
]]>この「ピーピー」言う癖をやめないと、周りにものすごいプレッシャーを与えるんだ、ということは解っている。
自分はピーピー言いながら、なんだかんだ言って最後はやらざるを得ないときはやる。そう、自分で解っているくせに、どうしてピーピー言ってしまうんだろう?
高いところを歩く以上に怖いことはないのに、同じくらい騒ぐ。大変だ大変だ、ヤダヤダ、やりたくないやりたくない。なぜか同じことを2回繰り返す。ピーピー。
そして、直面した時には乗り越えてしまう。乗り越えるんだから、言わなきゃいいのに。ああ、本当にごめんなさい。
適度なストレスは私を強くする。解っているのに、ストレッサーに出会うと、ピーピー言う癖を止められない。終わったらそんなことがあったかも忘れてしまうくらい、すっきりなのに、本当にどうしようもない。一歩ずつ、大人になるしかない。越えられない山はない。渡れない橋はたくさんあるけど。
最近、昔からの友人によく会う。みんなが思い出して連絡をくれる。
人間は結婚するとつまらなくなるが(異性は気軽に誘えない、同性も真夜中まで遊べない)最近、結婚した友人がようやく新婚生活も落ち着いたのか、飲みに誘ってくれるようになった。
先日もS兄と数年ぶりに飲んで、仕事の話をして、ものすごく盛り上がった。どうして、私はこのお兄ちゃんと何年も飲まずにいられたんだろう?
その前はSさんと飲んだ。どうして、5年も会わずにいられたんだろう?
新しい人との出会いがある。最近、また、素敵な出会いを続けている。
そして、昔の出会いが掘り起こされる。
どうして私はこんなに恵まれているんだろう?幸せだ。本当に、自分が未熟すぎて、その自分を直視するほど悲しいことはないが、その悲しみを簡単に乗り越えられるような、人に囲まれているのがめちゃくちゃ幸せだ。うん。ピーピー癖をなくして、無駄に凹み癖を抑えて、直前のネガティブパワーを控えて、かつ慎重に、かつ、落ち着いて。まだまだやるべきことは多い。
]]>解っているなら、どうして、それを直すために努力をしないんだろう?
馬鹿であるから、何もかも許してよ、なんて言い訳は通用しない。私は馬鹿だからこそ、いっぱい勉強しなくちゃいけないし、いろいろ学ばなくちゃいけない。馬鹿だから、できません、というのは真正馬鹿、というか、そういう人と仕事をするのは非常につらい。
馬鹿とか、そういうのって学歴とは関係ない。
少なくとも、人に教える立場であるならば、そういうことを言ってはいけない!と思うのだ。
「馬鹿だから、解りません」で許してもらえるほど、世の中って甘くないですぞ。「馬鹿だから、一発では理解できませんが、何度も教えてもらえますか?」ならいいのに。
習うほうも、「馬鹿だから無理です」と言ってしまったら、教えるほうが教える気がなくなる。
「馬鹿だけど、がんばりますから、よろしくね」と言われたら、教えるほうもがんばろうと思う。
馬鹿だけど、は謙遜。馬鹿だから、は真正。
馬とか鹿とか書きすぎてよく解んなくなってきた。にゃ。
]]>。。。さっきまでもうちょっとかっこよい文面になりそうだったのにな。
囚人のジレンマをまねしたかったのに。
最近、中学生にオヤジギャグを飛ばして滑りまくったり、ギャグがさえない。
]]>なんでも細かく悩むのが好きなんだ。
昨日会った、少なくとも、私の嫌なところをたくさん知っていて、とても信頼している割に全然会わない、10年を超えた知人に、「君はそういえば昔からネガティブだったね。でも、それで尽きちゃうんじゃなくて、どうにか前に進むんだから偉いよね」となんだかとても久しぶりに褒められたので、それはそれは嬉しかった。
私のネガティブさは病的だと自ら思いつつ、ギリギリのラインが好きなのかもしれない。
自分を追い込んで、そこから「だってやるしかないじゃん」というのが、きっといいんだろう。
でも、そのために、周りに迷惑をかけたり、振り回したり、いろいろあるのが常なので、がむしゃらに山を登っているときには分からないことが、山を登った後に「あ、友達おいてきちゃった」とかそういう自分の反省する。
でも、本当に、多くの人に迷惑をかけてきた。
で、思う。
私は、社会のために生きようと。
自らの幸せなど、望んではいけない。
ただ、使命をまっとうしようって。それだけで、生きている意味というか、自分が自分であることの意義があるんだと、昨日再認識した。
お赦しくださいなど、笑止千万、償うのみなんだなあって。
あなたを犠牲にしたので、自分はその分もがんばるよなんて、おこがましくて言えなくて、もう、ただ、道を走り抜ける。それが償いだとも思わない。ただ、自分ができることを淡々と。
自分の考えを言語化するのはとても難しい。
さらに、今読んでいるアンナ・カレーニナにかなり引っ張られている。
というか、アンナが追い詰められているのが、なぜか自分のように見えて、(それが文豪の力なんだけど)一緒に追い詰められている感。アンコントローラブルな感情。アンナと一緒に振り回される。
今宵、読み終わらなければ相当凹むなあ。(昨夜も読書だったけど)今夜は読みきっちゃおう。本当は机の下で隠れて読みたいほどなのに。
アンナの姿は煮詰まった自分の姿である。小説とは、誰かを煮詰めて作ったものなのか。
ブロンスキーを客観的に攻めたり、擁護したり、小説を読んでいるときは、本当に忙しい。心が。
で、wikipediaをみたら「完璧な作品」、うん、すごい解る。すべてがオペラのように、クラシックのように、激しく穏やかで、情景が目に浮かび、主人公に振り回される。そうだね、久しぶりに「すっごい」作品にあった気がする。
]]>昨夜はくだらないことで少し落ち込んでいて、「あ~あ、」と思いながら寝た。
私は夢をよく見る方なのだが、夢の中で、誰かが私に言った。
「過去はどうにもならないんだから、正直、落ち込んでもしょうがないじゃん」
「あとどれぐらい生きられるか解らないんだし、毎日一生懸命じゃないともったいないよ?」
私は答えた
「ありがとうー。そうだよね。毎日、一生懸命じゃないと、もったいないよね、じゃ、仕事するわ。」
と言って、寝た。
夢の中でもなにも一生懸命じゃない自分に苦笑をしつつ、
実際、if I were じゃなにも進まないよね。
あの時、ああだったら、あの人だったらこういうだろうとか、仮定法過去なんて、流しちゃおう。と思った。
過去は、過去。
そして、それは今を作るもの。
ってことで、夢の中で大いに慰められた。それだけの話。
]]>小さな成功体験は、「成功例」として自分の中で美化されていく。
そうすると、成功例ばかり自分の中に残ってしまうので、成功例に則った行動ばかりが多くなるのではないだろうか。
#いや、成功例が増えると大胆に行動できる、という意見も(脳内で)あり
成功例ばかり増えると、ちょっとした失敗例に当たったときに、ものすごく挫折と思うだろう。
他の人にとっては大したことがなくても、すっごい挫折。
1500万もらっていた人が、300万の生活に戻れないような。
反対に失敗体験をたくさん積んでいったらどうだろう。
まー、失敗するかもしれないけど、今までもたくさん失敗してきたんだから、これも失敗しても、同じさ!と失敗に寛容にならないだろうか?
100回失敗しても101回目ならオッケー(Byドリカム)にならないだろうか?
それとも、「次は失敗したくない」と縮こまるのだろうか?
私は特に成功したことがなくて、失敗ばかりの人生だが、おかげで、自分の失敗と他人の失敗に寛容になった気がする。
それよりも、失敗を恐れて、前に進めない方がイライラする。
成功に法則なんてないのだから、やると決めたらやった方がよっぽどいいのに、やらないで、「成功事例がないから」と動かない方がなんとももったいない気がする。
反省のない失敗はいけない。
でも、失敗をたくさんしていると、失敗の線引ができてくる気がする。
ここまでやれば、痛くない失敗で終わるなあとか、以前、これで失敗したから、次はこれをやってみようかな、と。
成功してしまうと、これでやれば大丈夫と、その成功の呪縛から抜けきらないだろう。
と、屁理屈をたくさんこねて、自分が失敗したことを穴埋めしていく。
成功が続くわけじゃないんだから、失敗を最低限に抑える方法と、失敗をして、次の成功に結び付けるためにどうすればいいか考えるのが一番いいんでないだろうか。と、思う。
]]>うちの学生君たちは本当にいい子が揃っている。
話をしながら、もう、飲んでるだけじゃだめだなあと反省しきり。
今まで、いろいろ挑戦してきたけど、全然努力していないなあ。と思う。
彼らは「努力」なんてしていない。自然体に「やりきっている」。だから「できるようになる」、だから「頭がいい」と言われる。
出来る子とできない子の差を比較する。何が違うのか。
ノートの取り方、ルーズリーフかノートかも違う。
勉強に対する姿勢が違う
「解った、マミコさんはできない子です!」とほろ酔いのピエルが私に言う。「それ以上、比較したら大変です」
そんなこといわれたら、もう、こりゃ飲むしかないな、と笑いながら飲むことにした。
ちょっとさぼっちゃおうかなー、とかがない。さぼって、充実した時間なんて過ごせないのだから、さぼらない方がいい。
彼らは「さぼらない」。それが違う。
自慢のアルバイト君&ちゃん。彼らからたくさんの刺激をもらう。
学生から見たら「おばちゃん」と言われてもいいとしなのに、嫌がらずに食事につきあってくれて、ワイワイはしゃげるのって、本当にみんなに感謝。最高。
]]>昨日のランチの時に「結婚しているの?」と聞かれた。
「いいえ、していません。」と回答してから、まるで言い訳をためていたように、結婚が困難である理由を連ねていったら、自分がその言葉群にだまされて、結婚に興味がなくなった。といっても過言ではない。
この年でそういうことを言うと「またまた強がり」といわれるが
これを考えただけでも、ちょっとゲンナリしてこないかい?
嫁の悪口はいいません!という人は、ほぼ嫁に不干渉な家だけで、そう多くはない。
多くの姑は嫁の悪口を言っているし、嫁もまた然り。違う家に育ってるんだから、違って当たり前なのに、なぜいがみあうのか。
そして介護。
そして、だんなの介護。(自分が介護されることも)そのことについて、相手はどう思っているか、尊厳死についてどう考えるか。
そういうことを、いろいろ考えていたら
「結婚は運と縁とタイミング」と当たり前のことをランチのお相手に言われてしまった。
まあそうなんだけども、できないいいわけ、しない言い訳を並べたい年頃なのである。
恋愛はお互いを向いているもの、結婚はお互い前を向くもの。
そう思っている以上、ノリで結婚はしたくないなあ。
でも、バリバリ働いている人にお子さんがいると「うわ、ちょっとかっこいい」と思うが、子供からしてみるとどうなんだろうなあ。
悩むなあ。
もつものが大きければ悩むものが多い。
子どもを持てば、悩みも増える。楽しみも増えるだろうが。
兄弟が多ければとても楽しいし、学ぶことも多いが、遺産相続で問題になったりすることもある。
何が一番いいかなんて、誰も知らない。
だから、きっとなるようになる。という、結婚観にする。焦らず、無理せず。なるように、なる。
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